同人小説書き『植栖価値(うえすかち)』のブログだよ。二次創作とかオリジナルとか色々やるよ。でもブログにはあんまり長いのは載せないと思います。変なのを書きがちだよ。最近は主にTeitterに生息中。TitterID:【lost_taboo】
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現在清涼院流水先生のJDC(日本探偵倶楽部)シリーズの、『カーニバル・デイ 新人類の記念日』を読み進めております。
いやあ、清涼院先生は好きですねえ。『カーニバル・イブ 人類最大の事件』、『カーニバル 人類最後の事件』に続く、カーニバル編三部作の三作目なのですけれど、これまでに広げまくってきた大風呂敷をどう閉じていくのかが楽しみでなりません。 なんて言いますか……。 流水大説(清涼院流水先生は自身の作品をこう呼ぶ)を読みこなすためには、きちんと『コズミック 世紀末探偵神話』と『ジョーカー 旧約探偵神話』、そして出来れば、『19ボックス 新みすてり創世記』を読んで、流水大説に脳を慣れさせていかないと振り落とされてしまいますね。もちろん、前2(3)作を読み切る前に愛想を尽かされては元も子もありませんが……w かつて清涼院先生が編集から「ノベレストという作品を世に出さないのか」と言われた際に、「まだ読者がそのレベルに達していないでしょうから」と言ったというエピソードも頷けるというものです。……というか『ノベレスト』ってタイトルも凄いよなあw ノベルとエベレストを掛けて、さらにノベルの最上級型(~est)とも掛けるという挑戦的且つ不遜なタイトルだw でもねえ……、小説――特にミステリを読む友人に、清涼院流水が好きだということを告げると、なんとなく『信じられない』とでも言いたげな反応を返されるんだよなあ……。 私が思うに、清涼院流水先生は、根っからのエンターテイナー体質なんだと思うんです。 彼の書く小説はたいていの場合、『小説』内で完結するようなものではない。どう読むかを読者に委ねる場合もあるし、『読者』に直接謎掛けを持ってくる場合もある。 清涼院先生の小説はどんな時でも、『小説VS.読者』、あるいは『小説⊇(含む)読者』なのです。 清涼院流水の小説ではどんな時でも、『読者』は探偵……それも『名探偵』と成らざるを得ない。 それが快感です。 人によっては『清涼院流水は、ミステリとして読まなければ楽しめる』と言います。 その楽しみ方自体を否定する気はありません。実際私も以前はそうでした。 しかし、ある程度脳を慣らして考えてみると、どんなにそれが突飛な内容とはいえ、やはりそれはミステリの延長線上なのだと思います。問題はその延長線を、清涼院流水が勝手に引いた、ということですがw 慣れれば慣れるほど、清涼院先生の言葉を違和感なく受け入れられるようになっていきます。 『言(ことば)が迷って謎となる』という言葉が現実味を帯びてきます。 例えばJDCでも最強の探偵、九十九十九(つくもじゅうく)の推理方法を考えてみるとわかります。 彼は『神通理気』という『必殺技』を持っています。 それはなんと、『解決のための材料が揃えば、たちどころに事件の真相を《悟る》』というもの。 こういった『必殺技』の存在も、JDCシリーズがバッシングを受ける原因となっているわけですが、よく考えてみてください。ミステリに於いて、『解決の材料が揃えば名探偵が解決を導く』のは、当然のことではありませんか。 ただ、物語に華を添えるために技名や『必殺技』を持っただけで、本質は通常のミステリとなんら変わらない筈なのです。ただ、通常の探偵のように、材料が揃った後も悩むような真似をしない、というだけなのです。 この部分を理由にバッシングをするということはつまり、『神通理気』、『悟る』、『必殺技』という、通常探偵とセットになることのない言(ことば)に、見事に迷わされていることにほかなりません。そうでないなら、先生の言葉を借りるところの、貶す為だけに本を読む、毒の舌を持つ読者――『毒者』でしょう。(もちろん、それ以外の理由で嫌う方もいるでしょうから、深くは追求しませんが) 少なくとも今後、ミステリ(エンターテインメント)小説を担うものであれば、清涼院流水を肯定できるだけの柔軟さが欲しいように思います。 彼は自身の小説で、幾度も幾度も繰り返します。 『人生で何よりも重要なのは、先入観を捨てることだ』、と。 PR |
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